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会長インタビュー
当時は作れば売れる時代でした。
このお仕事を始められた切っ掛けを教えてください
今から50年前の1967年、昭和42年に、おやじが困ってるのだから手伝ってやろうと。
大学卒業と同時におやじが経営していた会社に就職しました。
当時はスプリングに関する専門知識を持った人が1人もいませんでした。
その頃の日本は高度経済成長の真っ只中で、作れば売れる時代でした。
とにかく昔は適当な仕事で間に合っちゃったもので、試験機なんて置いていなかったんです。
バネの強さとか、そういうのはだいたい適当。それで間に合ってた。
自動機もなかったので全部手作業でつくる。職人さんが手で曲げて…。
それから、ボール盤を改良して、長い芯でもってずーっと巻いたり。
量産でたくさん作る場合もひとつずつ手巻き。
たくさん巻いて切っての繰り返し、とにかく手で全部やってた。
作ったスプリングは電気系の部品になっていました。
ブレーカーやライター、カメラ、8ミリ映写機、だいたいそんなのが主だったかな。
それから2~3年してからかな、やっと初めて1台自動機を入れて。
自動でバネができる機械ですか?
そうです。それを初めて1台入れて、それからだんだん増やしていった。
とにかく手でやる時代じゃないと思って。
おやじにもう機械化だよって。
最初の機械は、今ほど良くないのでバネの両端に余計な部分、耳が残るわけですよ。
当時ね、それを内職さんに出して切ってもらっていた。
内職さんが多いときで10人ぐらいいたんです。とにかく毎日、切る工具の歯を研いで、研いで、また研いで、それで持っていって、取り換えて、だから切る作業は全部内職で大変だった。今は機械がきれいに切断してくれるので凄く楽になった。
昔の日本は内職仕事がたくさんありましたね
その後に切らなくても済むような自動機を入れて、今はもう全部そうなんですけど、どんどん自動機に替えていった。今の一番奥にある機械はすごい優れ物ですよ。複雑なものも簡単に作れる。
試験機の性能が信用の目安
ご苦労された点というのはどんな感じでしたか?
やっぱり信用を得るための設備投資ですね。
信用というのは、スプリングの品質ですから、荷重を調べる試験機。それを最初に入れるときは、おやじと喧嘩しましたね。
なぜ喧嘩に?
自動機は物を作るから、入れていいよと。
でも試験機っていうのは、もの作ってくれないわけです。それに百何十万円も出すのは勿体ないと言うんです。
物を作らないからですか?
はい。もう喧嘩ですよ。だけど、それ入れなかったらお得意様に信用されないわけですよ。それでもって、説き伏せるのにずいぶん時間かかった、何ヶ月か。
やっぱり昔の人は、駄目だったら作り直せばいいという考えなの、昔の人は。
今はもう駄目だったら仕事一切ないですから、何百点、何千点やっても、不良品は一個も出すなと、そういう時代です。
試験機の機能は年々変わりますから、良いのが出るとすぐに取り換えて。お得意様にもあるんですよ。だから常にお得意様よりも新しいものを入れて、うちのほうが新しいんだっていう、言葉では出さないですけど、信用を得るためには古い試験機じゃ駄目なんです。それに毎年校正してもらうんです。だから、お得意様の試験機はいつも注目していました。
なるほど、その信用を上回ることが重要で試験機の性能がひとつの目安になっていたということですね
そうです。
大人なら誰でも知っているある大手のお得意様ですが、今はもうお得意様では検査しないですよ。「おまえのとこで試験しろ」と、向こうではもう検査はしないから、おまえのとこで品質保証しろと、それで今は品質保証書を必ず付けています。
そうしなかったら相手にしてくれなくなっちゃう。
その試験機を入れたことによって業績は変わりましたか?
全然変わりました。
お父様は、そのとき何とおっしゃいました?
もう何も言わなかったです。だから、駄目ですね、もうおやじは工場にいなくなっちゃった。遊びほうけて、半日いるといなくなっちゃう。代替わりしたのはこの頃かも知れません。
経験が長いから
良い仕事ができるけど
お仕事を通じてお気付きになったことってありますか?
うちは今、高齢化という問題を抱えています。
創業時から働いている職人さんもいて、経験が長いから良い仕事ができるけど、みな年をとった。
今息子に一生懸命、若いの入れろと言ってるんですけど、そのためには古いことはやめて、福利厚生を充実させたりして募集を掛けています。今はそれが一番の悩みです。
少ないものを手で作るというのは、やっぱり熟練はいりますけど、今は自動機の時代です。すごく若者に覚えやすい機械なんです、全部。
若い人はデジタルが得意でしょ。スマートフォンとかを常に使いこなしている。
そういう物に対して覚えが早いから、この仕事は若い人に向いていると思うのです。
もちろん手作りは大切ですよ。機械だけじゃ全く特色がなくなっちゃうし、仕事が回らない。
50年されていて昔と今では変わりましたか?
どんどん変わってるんでしょうけど、スプリングメーカーというのは、全国で1,000社近くあります。
その8割が京浜地区と名古屋地区と阪神地区にあります。
下町のほうにたくさんあったんですけど、やっぱり後継者いなくてどんどんやめていっちゃう。だから減ってはいますね、小さいところだけでなくね。
景気の影響はありましたか?
量産をやっていたころはやっぱりありましたね。景気の影響を受けました。
でも今は試作が主なのでほとんど景気の影響を受けません。
試作の方が波は少ない。どんな製品も開発のサイクルがすごく短くなっていますから、どこの会社もどんどん開発していますね。スプリングは不可欠なパーツですから仕事はなくなりません。
逆に量産は中国や東南アジアに行っていますからね。海外製の安い材料使って海外で作る。だから厳しいと思います。
最後に、御社を67年間支えているものは?
一貫して信用です。今も昔も同じでお客様の信用を得ること。これが一番重要です。
あとは無理を聞くということですね。
納期は守って当たり前。昔は平気で1日、2日延ばしちゃったりしていましたけど、今はもうそういうことでは駄目ですね。納期は守って当たり前です。単価が適正で当たり前。品質も間違ったもの作らなくて当たり前。褒められることは一個もないです。
とにかく信用しかないですね、私の場合はね、息子はまた違った考え持ってるかもしれないけど。
信用を積み重ねてきた感じ。これからも僕はそう思っています。
ただね、もうほとんど息子に任せているので、僕の出る幕はないと思います。
~飯田様、お忙しいなか、取材にご協力していただきありがとうございました~
取材日時:2017年10月
取材・執筆:株式会社ソフトプランニング
※文中に記載されている数値など情報は、いずれも取材時点のものです。